私は何なの
(6)多様性が刺激を生む
家庭の柱としての存在の役割を果たせたくなり自由な生活を過ごすことになる。 その本人は「私は何なの」となってしまう。「家庭の柱であったのが、柱を必要なくなればこの柱は何なの」。
「私は何なの」は閉じこもっていようが、独居でいようが、自殺しようか何が目標かわからない。重石を目標、希望とすれば重石のないふわふわした風船のごとくさまよっている。この人たちにこんなサ−ビスがあるよ。と強制的に縛り付けても効果がない。そこで諸々の行事、優しさ、思いやり、寄り添う等の行為で接することで、「私は何なの」の立場でいた人に思いがけない引き寄せるものを感じることが出来るのは、その行為・行事の内容にかかっている。そのことで、常に陰にかくれて姿がないもの「私は何なの」が目覚させることができる。
@芽を出してはいるがその芽を見つけてくだる人がいない。
A芽を全然出さないため発見されずにいる人(孤独)
そこで数多くの刺激が必要になる。活発化されず、しぼんでいる芽は質より量にて刺激を与え引き出す。それには各一的な居場所を提供する行事ではなく、多くの種目を取り入れた内容にしなければならない。芽が出し始めた人には自身で選択できる行事も選び出せる内容が必要である。
H26.11.14
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