静止体は形のあるもの、動体は形のないもの
(2)介護サ−ビスに満足するには動体に左右される。
ではこのありふれたあたりまえの事柄を介護に焦点を当てて考察してみる。施設「共同体」と言われる建造物は静止体だ。そこに入居する人たちは動体と思われるだろう。しかし高齢になると限りなく静止体に近づく。若くとも何か体に不具合が生じ手術して入院すればその間は静止体に近い。水さえ自分で飲めないのだから。高齢ないし考察する能力なき認知症などまさしくパソコンを全く使えない人達と何ら変わりの無い静止体だ。
静止体「建造物」に静止体「高齢者」が相対するとどうなるだろうか。このときは完全に静止(建造物)の優れた能力は死物化する。施設に入居したとしても、そこで働く動体によって施設の最高級の機具、用具等は機能しない。つまりはこ物の豪華さが価値を失うのだ。こう考えると施設はパソコンであり、働く人はパソコンの指導者であり、パソコンを使えない人を高齢者と考えればわかりやすい。
パソコン操作できない人はその機能に満足できない。それと似ている。従って施設に入居する人は、いかに動体=従業員=パソコン指導者の力量に満足度が左右されるかだ。
ゴルフならその指導者、学校ならその先生、病院なら医師、車なら教習場の指導員等の優秀さがいかに静止体の機能を発揮さすかにかかってくることがわかる。
このことから施設は建物の豪華さではない。そこで働く人、人手にかかっている。静止体(施設)が在宅と言う静止体と違うのは入浴装備だろう。なぜならどんな豪華な施設であっても「トイレ」 「ベット」 「食事」(入浴、排泄、食事、就眠)の中で在宅と乖離しているものは何か。それは入浴だろう。入浴のために大金を支払う。
静止体(建物)の中に静止体(高齢者)が対面する。その効果はどれだけあるか。となれば何が大切で何があれば期待どうりの力を発揮するのだろうか。何があれば満足する人間らしい生きがいが得られるのだろうか。
それは人手、介護員である。ではこの介護員は施設だから希望どうりに介護すると言う確信することはあるか。
確信を与えるのは建物ではない。介護の優劣の尺度にはならない。静止体(建物)に静止体(高齢者)が対面したとしてもその静止体(建物)は死物化する。
高齢になると限りなく静止体へ近づく。その一方静止体を動体へ近づけ受け入れ側の静止体を作動させ仕様どうりの成果を挙げるには動体が必要となる。その動体は静止体にとって全く受身であり、意思どうりに指示したとしても、意思どうりには働かない。意志を受ける人間の人柄、規格」に完全に支配される。さすれば静止体「高齢者、障害者」は自分たちの代わりになる人「介護員」の如何によってどうでも左右されてしまう。
となれば施設の共用部分といい専用部分といいいかなる最高の機能を維持しようとも静止体「利用者」には満足を満たすものではなくなる。
施設の入居金は共用部分を含む場合もある。又は専用部分の前家賃でもある。
入居すれば共用部分の使用料を支払う。このとき自立状態「動体」であれば共用部分の利用代金を支払っても料金に見合う価値を見出せる。ところがいったん静止体になったらどうだろうか。
H23.07.14